自分のことは自分で決めるー和解の効用ー
2018年3月26日知財(全般)警告状対応, 知財訴訟
間違った思い込み
(知財警告状が送られてきた末に,相手から訴訟を提起されて)
訴訟はケンカ。ネタが知財の訴訟でも,ケンカに変わりはない。
一方的にケンカを売られた以上,話し合いの余地はなし。
とにかく本気で殴り合ってやる。その後がどうなるかは,裁判官が決めること。
正しい心構え
訴訟,特に知財訴訟は,話し合いによる解決に向けた材料づくりの場。
裁判官を味方につけ,自分に有利な話し合いに誘導する目的で,戦略的に訴訟を受けて立つ。
裁判官を味方につけるべく,相手との殴り合いも必死に頑張るが,
最終的な結果は,裁判官に決めさせるのではなく,自分自身の手でまとめることにこだわる。
解 説
先日,東京地裁で私がやっていた,意匠権侵害訴訟と商標権侵害訴訟の2件が,
無事に,和解(訴訟の中で,原告と被告が話し合って解決すること)で終わりました。
それぞれの訴訟や和解の内容については,守秘義務があるので詳述できませんが,
ご依頼者様に対して,自信をもって和解を勧められる,大いに満足できる水準での解決でした。
手前味噌ながら,代理人弁護士として,いい仕事をしたと自負しています。
ところで,一旦訴訟になっても,
和解(話し合い)で訴訟が終わることがある,しかも,かなり頻繁にある,ということは,
(弁護士からすれば,当たり前すぎるほど当たり前のことなのですが,)
「えっ,そうなの!?」と,意外に思われる方も,実は多いのではないでしょうか。
「だって,話し合いでまとまらないから,訴訟になったんでしょ?」
「それがどうして,今更話し合いでまとまるの?」という,素朴な疑問があるはずです。
しかし,実際は,訴訟では(少なくとも知財訴訟では)多くのケースが和解で終わります。
統計データは引用しませんが,ざっくり言えば,半分近くのケースが和解で終わる,というイメージです。
このような実態を知らずに,上記の「間違った思い込み」のような,
やたらに血の気の多い態度(個人法人問わず,結構いらっしゃいます。)で,訴訟に臨んだりすると,
かえって,話し合いによる,自分に有利な解決のチャンスを逸してしまうことになります。
この点は,ご依頼者様に対しては,特に注意深く,言葉を尽くして丁寧に説明するところですが,
そのエッセンスのみを,以下に簡単に記しておきたいと思います。
まず,訴訟にまでなっているのに,何故話し合いでまとまるのか,という疑問についてですが,
それは,話し合いといっても,法廷の外でやっていたような,ゼロベースの話し合いではないからですね。
訴訟というのは,当事者として最前線で戦っていれば(主張と反論の応酬を重ねていれば),
こちらとあちらの形勢の有利不利は,論理的にも,感覚的にも,それなりにわかってくるものです。
(囲碁や将棋をやっている最中の,形勢判断のようなものですね。)
特に,知財訴訟の場合は,「それなりにわかってくる」というレベルを超えて,
心証の開示といって,判決の前に,裁判官が,部分的な結論を予告するような場面もあります。
要するに,訴訟の審理が進む中で,原告被告双方が,形勢の有利不利をある程度見極めて,
(このまま最後まで行くと,裁判官はこういう判決を書きそうだ,ということを大まかに予測して)
「現実的には,これくらいでまとめてしまった方が得かも(安全かも)」という見通しを持つに至ると,
(そしてそこに,裁判官による仲立ちと説得が,程よく加わると)
双方の主観的な期待値のズレが,一定範囲に収束して,意外に話し合いで落ち着くのですね。
このように,あくまでも,訴訟の形勢判断を前提とした話し合いですので,
訴訟を通じて,話し合いによる有利な解決を見据えるのであれば,
その前提として,裁判官を味方につけるべく,まずは必死で殴り合うことが必須です。
殴り合うことなく,お上品にお話しだけして済むほど,甘いものではありません。
しかし,そうだとすると,次の疑問が出てくるかもしれません。
「必死に殴り合った結果,めでたく裁判官を味方につけているなら,判決もらえば勝てるじゃないか。
どうしてわざわざ,話し合いで,多少譲ってまとめなければいけないのか?」
ここについては,色々な説明があり得ますが(解決のスピード,解決案策定の柔軟さ…etc),
一番本質的なことは,形勢判断は,どれだけ精密に行ったとしても,あくまで予測にすぎず,
裁判官が実際にどういう判決を書くかは,蓋を開けてみないとわからない,ということです。
判決の場合,当事者の立場から結果の不確実性を排除することには,限界があります。
これはもう,訴訟というのが,裁判官という赤の他人に,自分に関する判断の下駄を預けてしまう,
よくよく考えれば実に恐ろしいシステムである以上,原理的にどうしようもない。
で,ここからの話が,私の考えというか,弁護士としての哲学です。
判決の不確実性というのは,言い換えれば,リスクです。
しかも,それは,直接には自分の手でコントロールできないリスクです。
裁判官という,他人の手に握られたリスクです。
他方で,およそビジネスにとって,事業上のリスクを自分の手でコントロールすること,
裏返せば,自分でコントロールできないリスクをなるべく負わないことは,極めて本質的な要請です。
事業投資でも,株式投資でもなんでもそうですよね。
自分でコントロールできないリスク領域に,むやみに踏み込むのは,勇気というより蛮勇です。
(東芝による米国WH社の買収などが,わかりやすい例かもしれません。)
特に,知財訴訟で被告側に立った場合の特殊事情として,
特許にしろ商標にしろ著作権にしろ,
過去のことについて,お金で落とし前をつけるというだけでなく,
未来に向かって,自分のビジネスが差し止められる,大きなリスクがつきまといます。
このような,自分についての大きなリスクをコントロールする権限を,
裁判官という他人に握らせた状態(構図)は,根本的に,健全なことではありません。
何にせよ,自分のことは自分で決めるのが,原則であり,健全な状態です。
逆に言えば,自分のことを自分で決められない構図については,
そのような構図自体に漫然と乗っかるか否かを,そもそも論で考える必要があります。
判決に比べて,和解,すなわち話し合いによる解決は,
相手も裁判所もあることとは言え,どのような内容でまとめるか,自分でコントロールできる度合いが,
判決に委ねる場合に比して,格段に高まります。
知財訴訟は,その多くがビジネス訴訟であり,事業上のリスクそのものに関わる以上,
そのこと自体に大きな価値があると,私は考えます。
某リクルート社の社内用語で,「圧倒的当事者意識」という言葉があるようです。
意味は読んで字のごとくですが,いかにもリクルートらしい,いい言葉だと思います。
(私は元リクルートでも何でもありませんが。)
自分のことは断じて自分自身で決めるという,圧倒的な当事者意識ゆえに,
訴訟に至ってなお,漫然と,他人の手による判決に委ねることが飽き足らず,
何とか,話し合いで結果をコントロールしようと食らいつく。
これが,ビジネスの主体として,健全なあり方ではないかと,個人的には思います。